2001年1月ハンギョレ21 344号

[特集] アジュマ 離婚万歳!

[ 特集 ] 2001年01月31日 第344号

ドラマ <アジュマ(註:韓国語で"おばさん")> シンドローム… めちゃめちゃになる従順イデオロギーに拍手がさく烈する 

さる1月9日夜, テレビをつけていた多くの家庭で、拍手と歓声が溢れでた. この日、視聴者を興奮させたのは、サッカーの韓国・日本戦での韓国方の逆転ゴールではなく、一編のドラマの中の離婚法廷だった.

 ドラマ <アジュマ>で、オ・サムスク(ウォン・ミギョン)と ジャン・ジング(カン・ソグウ)の離婚判決が下された瞬間だった. もちろん、感激に震えた声は、大部分が女性のものだった. 翌日、文化放送ホームページの<アジュマ>視聴者掲示板には、逆転の勇士 オ・サムスクに対する支持メールが殺到した. “作家様, 演出家様、有難うございます”, “どれくらい痛快だったかわかりません”, “離婚判決 気がせいせいした”, “‘テレビを見ながら涙が出た. うれしくて”…. あるネチズンは、“作家は女性特別委員会から賞を受けても当然でないか”という提案までした.
 視聴者はどういうつもりで、一家庭の破鏡に, 女性の生で最も致命的な傷だという離婚に双手をたたいて喜んだのだろうか? ドラマは、容赦と和解という暗黙のルールを蹴って法院を出る原告 オ・サムスクの足取りに"威風堂々"行進曲を背景音楽に流したのだろうか? 


‘19世紀アジュマ’ 堂々と火ぶたを切る 


ドラマ <アジュマ>の風が荒々しい. 昨年9月末、‘家父長的な家内の従順的な専業主婦が、自身の生を見直して変身する過程を描いたコミックホームドラマ’という企画で始まったこのドラマは、放映後2ヶ月を過ぎる時まではそれなりなドラマの中の一つとして埋められていたようだった. しかし、11月末から視聴率が著しく上がり、これまで30%を走りながら快速巡航している. 正確に順位で表せば、一位ではない. 最近放映が終わったソウル放送の<女子万歳>や韓国放送公社の<太祖 王健>に相変らず押されている. けれども、<アジュマ>をおいて行われる攻防の熱気は、他のドラマに断然先んじている. 離婚判決が下される前、日刊紙に先を争って‘アジュマを離婚させなさい’という圧迫性のあるコラムと記事が登場した事実は、このドラマが放射している異常熱気を窺わせる. 

<アジュマ>に対する女性視聴者たちの, そして一部男性視聴者たちの支持は、既にシンドロームに変わって行く様相だ. 現実では3組中1組の夫婦が離婚をしていても、テレビでは相変らずできるだけ避けていた離婚を, 厚かましい程に堂々と描いて視聴者が喝采を送り, ドラマでジャン・ジングが投げてオ・サムスクが受け取る‘学問的同志(異姓友人)’という言葉が流行語になっていることは、アジュマシンドロームを見せてくれる例だ. 

主婦が主要人物として登場するドラマの洪水の中で、<アジュマ>は、支流に位置を占めている. 

源流は似ていた. 専業主婦で、長男の嫁として、‘月給のない家政婦’であり、‘年季のない小間使い’のオ・サムスクは、ドラマの初期には‘19世紀アジュマだ’,‘アジュマを卑下している’という非難の矢を受けた. しかし、“私も前は韓国社会をそのように認め、信じていました. あなたのように生きれば、本当にそうなのでしょう. あなたは、大韓民国最高で一流ですから”と信じていたサムスクが、“率直に言って、韓国社会が今まで私が暮らすのに何ひとつ助けてくれたことがあって? 私のような人を騙しても平気だったじゃないの?”と、堂々と火ぶたを切った瞬間、その流れがわかれた. そして、この地点から<アジュマ>シンドロームを発展させる動力が発生した. 

サムスクの葛藤は、夫や姑とのことに縮約されない. サムスクの戦いの相手は、夫と婚家の人間を含む, 自身を取り巻く制度で、終生自身を訓育してきた従順イデオロギーだ. 

彼女は、ひとつずつひとつずつ、自身に覆いかぶさっていた制度とイデオロギーの監獄を開けて行く. それで、戸主制廃止や、母親の姓継譲, 一家創立申請等、サムスクを臆させてきた知識人たちの‘救護’が、むしろ彼女の生の中で正常に溶解していく. 

主婦であることを明らかにした、あるネチズンの“自身の生が誤っていたと感じて、夫に他の女があるなら、これからも結婚生活をしなければならない必要性があるのか”という問題提起のように、最近のアジュマたちの問題意識に<アジュマ>は自然に目の高さを合せたのである. 

“サムスクが離婚をするまでの心的変化過程を物静かに見せて、法的な問題等も加減なしに見せながら、‘それでも息子の嫁’,‘それでも家の嫁’という強迫の城に暮らすには、既に、あまりにも多くのことを学んでしまった、この時代の女性のかゆい所を涼しく掻いてくれる.” 季刊誌 <イフ>の ファン・オ・グミ 編集長の評価だ. ファン・オ編集長の話のように、<アジュマ>は、一ケ月余りの間にも、裁判上の離婚過程や慰謝料, 財産分割, 養育者指定請求等、法律的問題を隈なく紹介していて、一部の視聴者から‘離婚をそそのかしているのか’,‘退屈だ’という批判も聞いている. おもしろいことは、主に男性や若い視聴者たちからこういう悪口を受ける反面、多くの主婦たちからは助けになるという好評を受けている点だ. 


アジュマ間の階級差別 

写真/各自の利害関係でぶつかる<アジュマ>の家族は、家族主義の虚像を壊しながら、現実に近い家族の姿を見せてくれる.

ドラマ<アジュマ>が、既存ドラマと異なる部分は、オ・サムスクという人物の躍動性に留まらない. むしろ、それより重要な変化は、ドラマで慣習的に描いてきた、家族のハーモニーを間違いなく押し倒したということだ. ドラマではいつもおじいさんが自愛深く笑っており、義母はあたたかく皿洗いを助ける姿が‘正しい答’のように反復されてきた. 

現実では、厳格に異なる姿の場合もあるけれど. このドラマが見せてくれる破格の程度は、ジャン・ジングの父役を担ったイ・スンジェ氏の姿に容易に現れる. 今まで、謹厳で剛直だった父役から抜け出さなかったイ・スンジェ氏は、<アジュマ>ではひざまずいて部屋の拭き掃除をする. 息子を教授の席に座らせるために退職金を出し、威厳を整えるための嘘を絞り出して, 無惨になってしまった嫁をふびんに思うが、息子の恋人が家を空けておくことができるという言葉に気持ちが傾く. 

ジャン・ジングの離婚過程で、家族各自が自身の利害関係で発言する様相は興味深い. 

姑 オクジャ(ジョン・ジェスン)は、持っていた財産をみな処分しながらも、慰謝料を出さないための方便として、嫁の言葉尻を握るために尾行をしている途中で大恥をかく. 小じゅうとたちはどうなのか, サムスクが離婚するという言葉に、新聞記者の、いわゆるエリートである上の小じゅうとは、子供を任せる人がいなくなることばかりを心配し, 家の中で比較的理性的な末っ子の小じゅうとさえ、兄の離婚が自身の結婚過程に傷をつけると思い、正しいとは思わない. 明らかにドラマ中のジャン氏の家は、あたかも利己主義ですべてかたまった集団のようだ.
 
しかし、大小の日常的葛藤で絡まっているこの家族こそ、今までドラマが意図的に、または無意識的に避けてきたが、注意深く見れば、まさに私たち周辺で生きている現実の家族に近い. 離婚する時、相手方を配慮して自身の血筋(註:子供のことか)をやすやすと譲り渡す父母がどこにいて、出勤の交通の便からは子供を任せる所がはるかに遠いのに、これ以上子供を見てやることができなくて困惑する葛藤を虚心胆慨に理解してくれる小じゅうとがどれくらいいるだろうか. 

映画評論家 キム・ソヒ氏は、“個々人の状況に対する複雑さを附与しながら、家庭を理想的な空間とみるのではなく、家族構成員皆が傷を抱いている空間として描くことで、視聴者は各自の場で‘何故、ああなるのか’というカタルシスを感じるようになる”という. 

また、この複雑な家で注目することは、女性が女性に対する態度だ. 姑とオ・サムスク, 二人の小じゅうと, そしてひろげてみれば、オ・サムスクの幼なじみのチェ・ユミ(キョン・ミリ)の実像は皆‘アジュマ’だ. しかし、アジュマはみな同じアジュマではなく, アジュマ間の階級差別をこのドラマはいちいち測る. 一旦 姑と嫁と小じゅうとという生まれながらの階級差別は、現実と同じで、このドラマでも宿命的だ. 単に嫁だという理由だけで そして、専業主婦だという‘原罪’で、サムスクは料理人, 清掃婦, 保母までを一手に引き受けなければならない. ここに、サムスクが“墨汁”と頻繁に表現する教養人と非教養人の差別までが侵入する. 二人の小じゅうとは、大学教育を受けて公式的な席で自らをフェミニストと呼ぶのに特に葛藤を感じない人物だ. しかし、食事の時, 子供を任せる時だけには慇懃に彼女の労働力に頼りながらも、いざ重要な話には‘無知な’小じゅうとを排除するのに特別な葛藤を体験しない. 最も消極的な搾取者である二人の小じゅうとからも暗黙裡に学ぶ墨汁の虚偽意識は、このドラマが痛烈に嘲弄する部分でもある. 


ジャン・ジングたち’が‘ジャン・ジング’の悪口を言う? 

写真/新聞記者の小じゅうとは、離婚宣言に、すぐに子供を任せることを心配する.

“知識人と基層民の結合”. 酔って友人の妹に触り、妊娠させて、止むえず結婚しながらも、このように自分たちの結婚をもっともらしい(しかし、幼稚な) 話で描写するジャン・ジングは、複雑な専門用語を駆使しながら妻 オ・サムスクを無視する. ポルノを見ていて、妻に見つけられると、“猥褻物の流通構造を分析”するのだと言って取り繕う、このなさけない作者は、“一粒の真実も無い”などと、基層民(妻)を搾取するには躊躇しない、いわゆる‘知識人’だ. 

ジャン・ジングのみでなく、オ・イルグォン(キム・ビョンセ), ハン・ジウォン(シム・ヘジン)等、いわゆる最高エリートと言われる教授集団は、このドラマで最も非正常的に描写される群像だ. 

ジャン・ジングに劣らない偽善者であり、また謹厳さという表面服を重ねて着て、より一層浅ましい人物に描かれるオ・イルグォンの前では、ジャン・ジングの粗雑な嘘は可愛い程度だ. オ・サムスクに会っては‘フェミニズム’を云々しながら、ジャン・ジングのそばで少女のような期待から詩を詠むハン・ジウォンもやはり滑稽に描写される. このドラマで、知識人に対する戯画化が過ぎていないかという批判も強い.

 これに対して、作家 ジョン・ソンジュ氏は、“ジャン・ジングという人物のモデルになった人がドラマを見ながらジャン・ジングの悪口を言っているらしい”と、このような答弁を投げた. 

一面偽悪のように見えることも、一ドラマ中の知識人の二重性に対する描写は、知識人集団と多くの部分重なる部分を持つ男性中心の社会, すなわち、おじさん集団に対するアジュマの仮借ないことでもある. 

アジュマたちの支持と非アジュマ, 反アジュマたちの批判の中で、ドラマ<アジュマ>は終着点に向けて走っている. 50回の分量が企画された<アジュマ>は、3月初めに終映を控えている. 現在、アジュマは、言葉そのままの‘学問的同志’と共に着々と行く手を準備しており, おじさんは控訴を準備していて、夢見る処女と同床異夢中だ. 

<アジュマ>の終わりはどこであるか? 熱烈なアジュマ支持者たちの憂慮とは違い、基層民アジュマと知識人おじさん間の再結合は川越した状態だ. では、ジングとジウォンは“結婚制度の矛盾”を克服して、“霊魂の結合”をできるか? 作家 チョン氏は、“それでも、ジャン・ジングよりはよい人間のハン・ジウォンがすぐに気を引き締めないか”と、暗にほのめかす. 

キム・ウンヒョン記者 dmsgud@hani.co.kr