2001年4月ハンギョレ21 354号

[人と社会] 私達が追い出した人々

[ 人と社会 ] 2001年04月10日 第354号

台湾の韓国通り‘チュンシンジエ’の韓国出身華僑集団, 彼らが抱く懐かしさと切なさ 


写真/70年代、韓国華僑たちが差別に押されて再移民に出て形成された台湾の韓国通り中心地にある漢字看板で、流民の歴史を読むことができる.

“Do you know Korea street?”

中年の台湾タクシー運転手は首を振った. 台北駅前から出発し、15分ほど走っただろうか? 台北郊外周辺の中正橋を渡ると、永和市の頂渓駅が見えてきた. 目立つ駅を挟んで、どしゃぶりの雨脚の間に、顔なじみの漢字が眼に入ってくる. 韓達行, 新韓商行, 順興韓食堂, 仁川服飾…. 名前から韓国の臭いを充満している看板は、ここが台湾の韓国通りの中興街であることを知らせてくれていた. 料金を払っておりる瞬間, タクシー運転手が笑って、一言を投げた. “Korea street is famous.” 


韓国市場で服を売っている店達 

細い雨脚が亜熱帯の暑さをやわらげた、さる3月9日午後3時. 商店街が200m以上立ち並んだ韓国通りの最初の家‘韓達行’のドアをあけた. 
あちらこちらに広げられた服類を整理しようと、三人のおばさんの手がいそがしい. “こんにちは”と挨拶すると、驚いてあわてていたが、ひとりのおばさんが“はい、 韓国からいらっしゃいましたか?”と、 喜色を浮かべた. 韓国で生まれて、18年前に結婚し、台湾に渡ってきた、この店の主人だ. 気が乗らない表情で、また服の整理に没頭する他の二人のおばさん. 主人は目くばせで二人を指して、“みな、韓国で暮らしていた人々”“ここでも、韓国出身華僑は、身近ですよ”と伝える. 何年か前、‘韓華協会’を作って、定期的な集いを持っている. 

四方に華やかなブラウスが陳列された店の一隅に、粉トウガラシ, ダシダ(註:韓国製だしの素), 高麗人参 等が積まれていた. 彼女は笑って、“ここでも、みな、キムチを漬けて食べます”としながら、“家の子供たちも、味噌, 唐辛子みそをよく食べます”と伝えた. 
おばさんの夫は、韓国料理店を運営している. 台北で洋服店をしている‘韓達行’主人が中興街に定着したのは、15年前に逆のぼる. 韓国通りが形成され始めて何年か経った時点だ. ‘韓達行’ 主人のおばさんは、“元来は、台湾の親戚たちに韓国服をプレゼントしたことがはじまり”と話す. その当時、電子産業中心だった台湾に比べ、韓国ははやくから繊維産業が発達していた. 特に南大門, 東大門市場の服は、低廉な価格にデザインと色が多様で、人気が良かった. 
利財に明るい華僑たちは、70年代からふろ敷商売(註:行商)を始めて, 80年代中盤、台湾の全面輸入開放が始まりながら、思いきって韓国服密集商店街を建てた. 閑静な路地だった、中興街が盛り場に変貌したのである. 初めは20余戸で始まった中興街の洋服店は、現在80余戸に達する. この中の半分以上を、韓国出身華僑が運営している. 相変らず、韓国市場で服を並べて売る店は、台湾全国に服を供給する卸売商の役割もする. 

‘韓達行’を出て、しとしとと雨に降られながら歩くと、いつのまにか中興街の端に至っていた. “韓国土産品”と大きく書いた‘金等商行’のドアをあけて入って行くと、うとうと居眠りしていたチュ・スェイ(44・初学緯)が人の気配で目覚めた. “まだ、半袖の服が入らないので暇だ”と、きまりわるそうに初めての言葉を漏らした. 韓国で生まれた彼は、久しぶりに会った韓国人が懐かしいようで、西小門で送った幼い時期の話から華僑学校時期の追憶を絶え間なく吐き出す. 

“友人と学校に行くときに、韓国の子供たちから‘チャンコロ チャンコロ’という冷やかしもたくさん受けましたよ. そうすると、わたしたチは、‘バカジ バカジ’と言い返して遊んだものです. 喧嘩もしましたが、懐かしい…. 高等学校の時、父に従って台湾にきたのですが、初めのうちは適応するのが難しかったです.” 


“朴正煕 政権の時期にはあまりにも厳しかったです” 

写真/韓国で生まれて、高等学校まで終えて、台湾に帰ってきたチュ・スェイ. 南大門で女性衣類を並べて売る洋服店をしていた.

ずっと華僑学校に通っていたが、学校の雰囲気と授業方式が異なるために、台湾の学校に適応しにくかったチュ・スェイ. 中興街通りの道祖神的存在の家族祠は、韓華流民の歴史をそのまま収めている. 
山東省出身のチュの父は、貧困を逃れて、日帝時代に韓国に渡ってきた. 仁川を経てソウルに定着したチュの父は、西小門に中国料理店を開いた. 店は常時客で混雑したが、事業を起こすには、韓国はあまりにも薄情な所だった. 

華僑による経済圏掌握を憂慮した韓国政府は、解放直後から差別政策を実施した. 
李承晩 政権の時期には、中国料理店に高い税率を課して料理の値段を統制する方式で、華僑の経済圏に圧力を加えた. 
朴正煕 政権ができてからは、韓国に身を置くことさえ難しい程だった. 60年、‘外国人土地所有禁止法’が制定され, 70年施行になった‘外国人土地取得及び管理に関する法’によって、華僑には、1世帯・1住宅・1店舗所有だけしか許容されなくなった. それさえも、家は200坪以下, 店舗は50坪以下に制限されて, 他人に賃貸さえ出来なかった. 
しかも、2世たちが増えたことによって、教育問題までが重なった. 韓国政府が華僑学校を正規の中・高校過程として認めず、検定高試を経て、やっと韓国の大学に入学できた. 外国人特例入学があることはあったが、それさえも人員が制限された. 身分も不安定だった. 永住権制度がなく、万年外国人として2年ごとにビザを更新しなければならなかったのだ. 

こういう状況を見ながら中華高等学生になった73年、父はやっとのことで築いた生活基盤を捨てての移住を決心した. チュの家のみだけでなく、華僑たちの移民の行列は、70年代の終始連なった. 
60年代末、4万名をはるかに超えていた華僑人口は、80年代初めには2万余人線に減った. 70年代にだけでも、2万名ほどが差別を経て、米国, オーストラリア, 台湾 等の地へ向かったのである. 逆説的に差別に押されて韓国を離れた華僑たちがひとつふたつと中興街へと集まって、こんにちの台湾の韓国通りが形成された. 幼い時期を思い出して“なつかしい”と言うチュは、続けて“韓国は華僑が暮らすには難しい国”とし、両面的感情をあらわした. 

チュの悔恨を後にして、また中興街を戻った. 突然太くなった雨脚を避けようと、建物の中へ飛込むと、韓国暦を掛けた店が目につく. ふとんを主に売る、中興街33号 ‘金玉’だ. 真中にぼんやりと立って店内をながめていると、主人のおばさんが出てきて、“コーヒーでも一杯飲んでいってよ”と、手をつかむ. コーヒーを持ってきて、“南大門市場で売っているコーヒーがすごく好きでね”と話しかけるおばさん. “ここのコーヒーは、そんな味が出ない”と付け加える彼女の話の中に懐かしさがにじみ出ている. 
韓国で生まれた彼女たち夫婦は、70年代に台湾にきた. 今年五十三の夫は、華僑学校を卒業して、台北大学に通い, おばさんは首都女子師範大学を卒業したエリートであった. だが、頑張って韓国の大学に進学したおばさんは、韓国で位置を占めるのが難しかった. 当初、韓国の学校で教鞭を取ることは不可能で, 少しの間華僑学校の先生をしたのが、教師経歴の全部だ. ご主人は、“韓国では大学を卒業しても、料理屋商売しか行く道がないと思って” 台湾に留学にきた. 名門台北大学土木学科をでて、建設会社に勤めた彼は、約10余年前に中興街へと入った. 


どこにも落ち着けない… 


門を閉めた向い側の店を指して、“最近では、中興街の商売もかなり落ちた”と愚痴るご主人. 沈滞した台湾の景気のせいなのか、最近商売が芳しくない. 5年前は100家までに増え、絶頂に達した店の数が、最近は80余りにまで減った. 彼は、“韓国の人件費が高くなりながら、物の値段が上がったこともひとつの原因”と話す. 最近では、韓国の代わりに、人件費が低廉な中国から服を仕入れる店が増加している. 

ますます商売がむずかしいと、愚痴をならべた末に、彼は、“最初の故郷は中国 本土, 二つ目の故郷は韓国, 台湾は…”と、言葉尻を濁した. そばで降り注ぐ雨脚を見て、“台湾は暑くて湿気が多くてきらい”というおばさんの言葉で、どこにも落ち着くことができない‘流民’の切なさが伝わった. 
偶然に‘金玉’に立ち寄った中興街の唯一の韓国人 チェ・グンファ(50・新韓商行)氏は、“台湾の人々は、帰ってきた華僑を‘外省人’と呼んで、正常な中国人だとは思わない”と耳打ちする. 韓国では、中国人として差別を受けた彼らが、台湾では‘半分’韓国人として見なされるのだ. 戻れない根である中国と、押出された韓国, 差別を経て入り込んだ台湾, そのどこも、彼らについては故郷になることができない. 

客を迎える少しの間をみて座ったおばさんは、“それでも、最近はとても良くなった”としながら、“韓国にいる私たちの甥たちは、みな大企業に通っている”と自慢する. 
彼女の話のように、差別の壁は徐々に崩れている. 98年の外国人不動産所有制限撤廃で、以前より経済活動が自由になったことが代表的な例だ. だが、相変らず彼らの境遇は、韓国が常に“差別を受けている”と抗議する在日同胞の境遇と似ている. 参政権の保証を受けることができず, 永住権制度がなくて5年ごとに長期滞留(F2)ビザを更新しなければならない不安な身分がそうだ. 私たちの中の差別をなくしてこそ‘抗議’も堂々とできるのだ. 雨にそぼ濡れた中興街を抜け出しながら思った考えだ. 


台北=シン・ユン・ドンオク記者 syuk@hani.co.kr