2002年2月ハンギョレ21 396号

映画館の看板に絵はない

[ マイノリティ ] 2002年02月05日 第396号


映画館の看板に絵はない
シルクスクリーン写真に押し出された看板画家たち… 最後の‘職人’残って風景画家として専業


写真/40年間ソウル市内映画館看板を描いてきたチェ・グァンシク氏. 彼は絵看板が押し出される現実がせつない.

八坪に足りない空間. 片側の壁を一杯に埋めたベニヤ合板上のアーノルド・シュワルツネッガーの顔がお客さんを迎える. 彼の顔からぷんぷんと油性ペイントの臭いが部屋中に立ち込めている.
どっかりと座って大きな筆で、シュワルツネッガーのあごの部分に褐色のひげを描いていたチェ・グァンシク(59)氏が立ちあがった. みずぼらしいジャンバーとズボン, 靴に油性ペイントを点々とつけたチェ氏は、20年間、城南映画館(ソウル市龍山区)の看板を描いてきた看板画家だ.
城南映画館に美術部長としてくる前にも、20年近くソウル映画館, 大韓映画館, 団成社等、ソウル市内の主要映画館を大部分廻ってきたから、今年で彼の経歴は40年を展望する.


一時は国展画家がうらやましくはなかった…

“画家といえば画家だね, ペンキを塗り重ねる.”

記者が称する自身の肩書におこがましいとしながらも彼は付け加える.
“それでも、良かった時期には国展に出てくる画家たちがうらやましくなんかなかったよ.”
80年代初めだけでも、彼は6〜7名の門下生を率いて、いくつかの映画館の看板の責任を負った売れっ子看板画家であった. 九つの映画館に同時に描いた<桑>(註:映画タイトル)は, 後になってからはスチール写真がなくても、そのまま描き出すことができる程だった.
しかし、すでに看板絵を学ぼうと映画館を訪ねる若い人も消え、彼は今しがた買ってみた自販機コーヒーが10分も経てばアイスコーヒーに変わる冷たい作業部屋で一人看板を描く.

“幼い時から絵がすごく好きだったんです. 大学に行けるような状態ではなかったのですが、絵は描きたくてね. その頃、貧しい画家志望者は、皆映画館へ行きました. 絵も、そして、お金も稼ぐことができる所でしたから.”

チェ氏は、‘新しい技術’を学べという父母の言葉を振り切って、十八歳の時に平和劇場に就職した. 1年以上、あき缶ばかり磨きながら、筆に近づくこともできず、遠くで先輩の描いている筆使いを見て絵を学んでいる時、ソウル麻浦のキョンボ劇場で<宿縁娘子伝>に感心したりした.
映画が全国民の唯一の娯楽だった60年代には看板画家も人気職業で、主要封切り館に進出するのは容易なことではなかった. 大韓劇場は採用試験もした.
チェ氏は, 各地から来た数十名の競争者を抑えてこの映画館に入って描いた<ベンハー>の大型看板の下で絶えず列をなして入場を待ちながら看板を見上げていた観客を忘れられない.

“今は社長が希望するように作るけれど、その時は誰も絵に関してどうしろ, こうしろとは言えませんでした. 絵を少しでも描く人たちは、みな自分の個性通り描きました. 競争心も大変でね.”

スター級画家たちが誕生し, 実力のある画家たちが互いに技量を自慢していた時は、看板絵にも流派があった. いわゆるボカシ派とタッチ派がそれ. ボカシ派は写真と似るようにポスターを摸写する方式で、タッチ派は筆のタッチが表れて‘作家主義’を指向する画家たちが好む方式だった.

“今は写真が好まれるけれど、その時はボカシ絵はそれほど評価を受けなかったのです. 軽薄だから. タッチ絵の上手い先輩や同僚が看板を新しく仕上げたら、映画館の前に行って一生懸命に見て研究したものです.”

チラシや店の壁に貼る小さなポスター以外に、映画館看板に映画広報を全的に依存していた時、人気俳優たちも看板画家を無視できなかった.

“タイトルは忘れたけれど、ソ・ヨンチュン氏とツイスト・キムが出てくる映画を描いた時でしたよ. ある日、ツイスト・キムが美術部を訪ねて来ると、ポケットに封筒を突っ込みながら、顔を少し大きく描いてくれと言うのです. 悪役として人気があったホ・ジャンガン氏は、映画館に立ち寄る度に美術部職員たちとご飯も一緒に食べ, 酒も飲みながら親しく過ごしたものです.”


複合上映館が導入されるにつれて、働き口を失って

写真/ソウル市内中心街の複合館中で、唯一絵看板に固執している新村グランドシネマ.

看板の顔の大きさ競争は、歌手たちがより激しかった. 60〜70年代には適当な公演場がなかったため、映画館で行う歌手のリサイタルや連合公演をTVで中継する仕事が多かった.

“シンソル洞に居た時、キム・セレナさんが、看板の顔が小さいから公演をしないと言い出したのですが, その時の劇場専務がキム・セレナさんの情熱ファンでした. 真冬でしたのに、工事中だった映画館前の高架道路上にその大きい看板をあげて、雪原で描き直しました.”

90年代序盤までは、ソウル市内には100余名の看板画家たちがいた.
しかし、複合上映館が導入され始めた中盤以後、看板画家の数字は急速に減った. 映画館数も減り、新しく建てる映画館は皆シルクスクリーン写真で看板を作ったためだ.
ソウル劇場, ミョンボ劇場, 大韓劇場 等、ソウルの代表映画館が続いて複合館に転換されながら、長い間の同僚たちが皆働き口を失った. 特に、最後の砦だった団成社までが、すこし前に複合館工事に入って、中心街の映画館で看板絵を見ることができなくなった.
既に封切り館の看板画家たちは、十指に収まる程で, チェ氏は看板画家中の最古参になった.

 “最盛期の若い時に仕事をした映画館を通り過ぎながら実写プリント(註:シルクスクリーン看板)を見かけると困惑します. 何にしろ, そのまま食べていければいいのですが.”

それでも、心の片隅にある残念さを隠さない.

“コンピュータ時代になったから止むを得ないことかもしれませんが、厳しい時にはご飯一食で看板を描いてあげて共に苦労したのに、新しいものが出てきたからと、何十年も同じ釜の飯を食べてきた人を追い出すなんて、それはないですよ.”

90年代、潮が引くように抜け出ていった看板画家たちが巣を結んだ所は、サムガクチだ. サムガクチには、映画館から押出された画家たちが整えた画室が集まっている. この画室は、大学街周辺の画室とは性格が違う. アラスカのような異国風景の写真を油絵にして、海外に輸出する絵を描く所だ.


“それでも、絵看板は写真よりましだ”

写真/ "近くで見る場合、写真が良いかもしれないが、遠くからは映画を光らせるのは絵だ." たとえ押出される業種でも、チェ氏には'看板職人'のプライドがある.

ソウル市内複合館中で唯一絵看板を掛けている映画館として、新村ロータリーに位置したグランドシネマがある.
ここの看板を描くイ・チャニョン(49)氏も、今年で30年目になる、看板絵を描いてきた画家だ. 彼も周囲の同僚たちがひとりふたりとサムガクチへ向かうのを見送ったが、一度も転職を考えなかった.

“ぼくの絵が建物の壁にかかる時に満たされる”という彼は、衰落していく看板絵から離れない. “最後のあがき”と笑いながら話すが、“ここまで写真に抜かれたら、看板は完全に終わる”という使命感を感じながら仕事をするらしい.
チェ氏と同じで、彼もこの職場を最後のものだと考える. 映画館主人の心が変われば、いつでも失いかねない働き口だが、仕事の一つ一つに愛着を持つしかない.

“写真は一度見れば終るけれど、絵は二度三度と見ることができます.”
イ氏は最後の‘看板職人’としてのプライドをこのように表現する.
絵看板は写真より良いという確信は、チェ氏も変わらない.

“近くで見れば写真が良いかもしれないけれど、遠くから映画が光らせるのは、それでも絵看板なんです. 写真はすぐに色が褪せるけれど、看板は数ケ月経っても相変らず鮮明だしね.”

グランドシネマが複合館の流行について行かないのも、絵看板の優越性を認めるからだ.

“実写プリントは、絵に比べて夜にはよく見えないという短所があります. 看板が露出される通りが、他の映画館よりもはるかに広いため、私たちとしては絵看板は当然の選択です”と話したジャン・グンジン代表は、“写真に変える計画はない”と付け加えた.

明日あさってには六十に手が届くかというチェ氏の作業室を出ながら、いつくらいに引退する予定か尋ねた.

“来年に一度また来てください. その時も看板がかかっていれば、まだやっているということ. でなければ、引退したということです.”

古い鉄製キャビネット上に数枚積まれている映画ポスター, ペイント缶に刺さされている各種大きさの筆, スポンジが内蔵のように飛出してきたまま、画家の重い脚に安息を提供する古い客席用椅子が、古くなった田園のように侘びしい風景になって、韓国映画史のとても小さな片隅に、人をスチール写真として印画していた.


文 キム・ウンヒョン記者 dmsgud@hani.co.kr
写真 パク・スンファ記者 eyeshot@hani.co.kr