2002年6月ハンギョレ21 412号

酔画仙を踏んで、林權澤を越えて
[ 文化 ] 2002年06月05日 第412号

酔画仙を踏んで、林權澤を越えて
カンヌ映画祭受賞を契機に賛否論争加熱… 巨匠の美学的成就, その光と影

写真/(シネ21 イ・ヘジャン記者)

朝鮮時代の画家 吾園 ジャン・スンオプの一生を描いた<酔画仙>で、第55回カンヌ映画祭監督賞を受けた林權澤(イム・グォンテク) 監督は解放感を感じたという.

“これまで、頚木を担いで生きてきたようだったのに、受賞発表の瞬間、頚木から抜け出した気分であり、一種の解放感を感じました.”

彼の受賞所感は、韓国映画界全体のことでもある.
世界最高権威の映画祭が、韓国映画にはじめて敬意を表したのだから.
ところが、林 監督は、国内批評界に重い宿題を投げかけた.<酔画仙>の美学的成果とは、いったい何かを明らかにしてみろという問いだ.
カンヌ映画祭受賞という喜びは、ここにつりあう条件を作ってくれた.
<酔画仙>に対する, そして、林權澤 監督に対する賛否論争は、すでに権威に根拠無しで挑戦したり、根拠もなく期待するということとは違い, その権威の基礎になっていたことを‘解放感’を持って, 自由な心から語ることができる時期になったことを意味するためだ.


“おきまりのレパートリー反復に終わった”

<酔画仙>に対する国内の初期評価は、全員一致ではなくても肯定的な一定の流れをなしていた.
ところが、反論が降り注ぎ始めた.
映画評論家 カン・ハンソプ(ソウル芸術大 映画課 教授)氏は、月刊<プレミア>6月号で‘林權澤という神話’というタイトルで、‘力強く’打って出てきた.
カン氏は、<酔画仙>が、だいぶ失望した作品とし、この映画に向かったジャーナリズム批評の称賛一辺倒を苛酷に 非難した. 彼の批判は、新聞の批評記事よりも<シネ21> <フィルム2.0>のような映画専門誌に焦点を合せている.
“日刊紙は無理で工夫のないドラマ構成を指摘して、その反対給付として映像美の卓越さを浮上させながらこの映画に対する客観性を維持しようと懸命に努めているのに”反し、映画専門誌は“欠点を批判するのではなく、むしろ、それを意図的欠乏または新しい試みとして美化している”という.
カン氏が指摘する欠点は、こういうものだ.
“林權澤の吾園は、根拠もない画家の一次情報を、一代記という鬱陶しい方式の中に勇敢に羅列していた. …その上、映画の視覚的スタイルは、林權澤-ジョン・ソニル(撮影監督)システムの反復だった. …創作の歴史は、名前そのままに既存の素材と良識に対する不正と克服の歴史であった. ところが、林權澤の<酔画仙>は、監督の18番を反復していた.”
 
<プレミア>同号に載った少壮評論家 イ・ミョンイン氏の文は、<酔画仙>をもう少し緻密で辛らつに攻撃する.
イ氏はパンソリを引き込み、形式の新しさを作りだした<春香傳>に比べて、<酔画仙>は映画の形式面で新しく成就した痕跡が見えないと火ぶたを切った後, 内容とイデオロギーに対する批判に入っていく.
“<太白山脈>で絶頂に達した傍観者的時代観と世界観がそのまま反映されて”いて, “映画はある瞬間, ジャン・スンオプをソンビ(註:儒人としての高い教養を持つ人)世界, 両班(註:ヤンバン.朝鮮朝の貴族階級)文化中に編入させている”という.

ついに西欧の好感を引き出そうという“オリエンタリズムに服務”するという嫌疑までをも提起する.
中堅評論家 イ・ヒョイン(東国大 教授)氏も、オリエンタリズムに対する嫌疑を含み、<酔画仙>に対する批判的評論を<ハンギョレ>6月4日紙‘映画観覧席’に載せた.
“<酔画仙>は <開闢>で犯した、安易で主観的な歴史解析とランニングタイムあるいは何かに追われながら織造した破片的なエピソードの羅列という誤謬を反復していたかの様に見える. また、ジャン・スンオプが追求した仙境の世界や荒い生とは違い、画面はあまりに脂こく、当惑さえする. ジャン・スンオプに関する想像された虚構的生が、実際の生を押さえ込んだのみだけでなく、その全てのものは脂こい画面の中に転がっている.”


言いがかりなのか, 理由ある非難なのか

写真/一部の評論家たちは、<酔画仙>が新しい成就をしなかったと批判している.

林權澤, そして、<酔画仙>に対する論争は既に開始されたが, 正反対の地点に立っている評論家が皆‘映画界が認める’名うての人物たちだという点で、以後広がる地平は興味を超える.

まず、<フィルム2.0>編集委員であり映画評論家であるキム・ヨンジン氏がカン氏の<酔画仙>に対する批判, そしてジャーナル批評に対する批判のすべてに反発した.
キム氏は、<酔画仙>が完壁な傑作ではないが、映画としてとてもよく作られたと話を継続した.

“林 監督は後期作へ行くほどプロット中心ではなく挿話的に行くので、話の流れよりは画面の流れで美学を作っていくのだが, 同じ脈絡でジャン・スンオプの画と映画の画面がよく照応していく感じを受けた. 画中の山水と, カメラがつかみ出した映画の中の山水が互いに競争するように. そして、そこで人間であり芸術家としてのジャン・スンオプを重ねている. このような美学を見せることができる監督は、韓国映画に現在はいない.”

キム氏はまた<開闢>や<太白山脈>で現れた, 個人を歴史的傷跡のように、時代と連結しようとする強迫を見せるが、これが作品を傷つける程ではないと語った.
特に、彼は“新聞が辛口の反応を見せて、専門紙は万歳を叫んだ”としながら、カン氏のジャーナル批評に対する評価の前提に同意しながらも,“専門紙が長文のインタビューとレビューを通して中間決算をやるのは当然な姿勢であって、絶対にやりすぎではなく, カン教授の非難は行き過ぎたようだ”とした.

カン氏の主要ターゲットになった<シネ21>のホ・ムニョン編集長は、これをもう少し複合的に眺めた.
彼は、60年代フランス ヌーベルバーグ評論家が作家主義という‘刃’をむやみに振り回す時、彼らを惜しんだアンドレ・バジェンが美学的人格崇拝に流れる傾向に対して警戒した点を思い起こさせた.
このような脈絡でカン氏の批判は, 韓国ジャーナル批評全般が美学的人格崇拝に陥っているかもしれないという点に言及したという点で、根拠もないことではないとみながらも, 作家主義政策は私たちには相変らず有効だと、きっぱりと話した.

“ジャン・リュック・ゴダールのどんな映画でも傑作であるというのとは違う. 彼のフィルモグラフィが見せる芸術的探険と余情が美学的革新をなしているので、ゴダールが20世紀最高の映画監督としての評価を受けるのだ. 百歩譲って<酔画仙>が失敗作だと(仮定)しても, それが、林權澤という韓国映画美学を代表する人の失敗ならば, その中にはどんな美学的エネルギーがあるのか、という期待をすることになる. その失敗の地点を積極的と解釈すること自体が無意味ではない.”

ホ氏の結論は, 林 監督が新しい美学的冒険を始めたし、それがどんな地点から出た挑戦の産物かを話さなければならない時だということだった.
このくらいになれば、<酔画仙>をめぐる論争は、作家主義の有効性可否という‘古ぼけた’話として層位が広くなる.

カン氏は、‘林權澤という神話’で“安定的で論理的な正体と実体性を持ったスーパーマンとしての創作者を出発点として定める作家主義は、挑戦を受けて批判を受けて, 映画批評の主流から追放にされて久しい”と書いている.
しかし、作家主義政策は, ホ氏が見るには, 作家の美学的冒険を激励しなければならないジャーナリズム批評の主要な役割だ. 冒険は常に完成された形態ではなく、不均質の, 不完全なこととして提出されるのだが、批評はその冒険の意味を積極的だと解釈しなければならないのだ.
ハリウッド ブロックバスターが主導する映画産業がその他の映画を疎外させる状況で、その言い訳を観客ができないという点も理由となる.


作家の美学的実験は続くか

イ・ヒョイン氏も作家主義を廃棄しようというカン氏の見解には反対した.

“過去の作家主義が学問的研究対象だったなら, いまは、大衆自らが映画に作家主義形態で会っているため、作家主義は相変らず有効だ. 大衆全体ではないけれど、監督と作品を連結して執着する現状が明確に存在する.”

ただし、彼は、<酔画仙>が終わりのない形式的実験の延長線上にあるかとの質問に、‘それは違う’という見解を持っている.
最近の賛否論争は、キム・ギトク監督の<悪い男>とパク・チャヌク監督の<復讐とは私のこと>をめぐって行われた.
しかし、<酔画仙>をめぐった論争はもう少し‘巨大’な河だ.
林權澤という巨匠が粘り強く築いてきたいわゆる‘韓国的美学’に対する検討が必須なためだ. 韓国映画を豊饒にするその収穫が期待される大きな課題だ.
 

イ・ソンウク記者 lewook@hani.co.kr