2006年1月ハンギョレ21 594号

過度に美しいゲイロマンス
2006年01月20日 第594号

過度に美しいゲイロマンス
エロチックなセックス描写無しで慇懃な目くばせだけでもあらゆる事を表現した<王の男子>観客と評論家からQueer映画のレッテルを貼られない理由は何だろうか

□ ハン・ジュンヨル/小説家

朝鮮時代の同性恋人の愛の物語を扱った<王の男>の興行突風がすさまじい. 封切り13日で観客300万名をひらりと越えた.
韓国社会で同性愛が主流媒体で受けているということを考えてみると、この映画の興行は奇怪なまでだ. 多くの媒体が映画の興行要因を分析した.
ところが、同性愛に言及する媒体はほとんどない. 異常だ.

二人の男の同性愛を扱った映画を見て同性愛を語らない.
タイトルさえ<王の男>ではないか.
社会の各界各層で暗暗裡に活動している同性愛嫌悪者(ホモフォビア)たちも同様で, このような映画が開封される度にQueer(註:「風変わりな」.同性愛者が自ら口にする以外は強い差別用語として「変態」)映画の系譜を掘り起こした評論家たちの言葉もほとんどない.
ひょっとして、ゲイ(男性同性愛者)である私も知らない間に、韓国社会で同性愛は話題にもならない自然な現象になってしまったのだろうか?


△ ジャンセン(ガム・ウソン, 左側)とコンギル(イ・ジュンギ)の愛は試練を踏んで、結局は死で完成される.

ホモフォビアたちが非難する根拠がない?

私が映画をよく理解できていないのではないかと思って、もう一度映画を見た.
目を絢爛とさせる華麗な色彩と奮い立つ広場劇のような小枝を取り除いて見たら, 三人の男のロマンスがより一層鮮やかに見えた.

絶えずコンギル(イ・ジュンギ)と関わってきたジャンセン(ガム・ウソン)は、結局愛する男の代わりに大逆罪を着る. 誰でもが表現できる愛ではない.
ヨンサン(ジョン・ジニョン)の愛もまた大変なものだ.
ジャンセンが、自身を殺人鬼であり、そのために女とも戯れると暴露した時でもにこにこ笑ったヨンサンだった. 自身に対する侮辱は笑い飛ばすことができるが, 冷やかしの矢がコンギルに行くことは耐えることができないということだ.
コンギルはどうなのか. ジャンセンのために人を殺して, 死んでもジャンセンと共にするために手首を引っ張る.
映画の最後は、ロマンチックな愛の決定版だ.
ふたりの男は来世の愛を約束して共に空に上って, 既にコンギルの愛が自身に無いことを知ったヨンサンはノクスと一緒に微笑ましい表情で彼らを眺める.
まもなく差しせまる死の前でも、主人公は皆自らの愛を歌う.

簡単に整理するなら、元来から愛し合う間だったふたりの同性愛者は逆境を踏み越えて互いの愛を確認して, ある瞬間、同性愛者の美貌と才能で愛していた女性を遠ざけていた異性愛者はまた自身の席に戻るというストーリーである. 一編のよく整ったゲイロマンスだ.
どんなに華麗な衣装とわくわくする見物所で装いしたにしても、この映画を同性愛から離して話すことにはならない.


同性愛者も夢を見る権利がある

韓国近代以前の社会の中で最も多い同性愛関連資料をさがすことができる男寺党牌(註:ナムサダンペ.旅芸人)が背景であり, 過度というより非人間的行為さえ拒否しなかった時代の話だ.
現実を土台にした、十分に想像できるフィクション風ゲイロマンスだ.
韓国の地で, それもリアリズムまで加味されたゲイロマンスが, 他の同性愛映画が経験することができなかった興行神話を作りだして, あたかも、その ためでもあるかのように観客と評論家からQueer映画のレッテルを貼られない理由は何だろうか.
どちらかといえば、理由は簡単なのかもしれない.
過度に美しいためではないだろうか? 映画の中の男たちの愛が美しく見えるようにするために、監督は可能な限りあらゆる方法を動員する.

まず、コンギルはノクスさえも嫉妬する程しとやかに描写される.
コンギルが仮に原作である演劇<繭>でのように粗野な外見だったのなら、話が少しは変わっていたことだろう(<ぼくの生涯で最も美しい一週間>の同性愛セクションでふたりの男が互いを熱く眺める時に観客たちが爆笑をさく烈させたことを記憶しているか).
次に, 少しでもホモフォビアたちの神経に触る性的表現をすべて排除した.
恋人たちは互いを感じる方式として、控えめながらも熱い視線だけを交換する. 男性同性愛を嫌う人々の大部分が‘同性愛’という抽象名詞ではなく, 具体的に思い起こすセックス(肛門性交のような)に身震いするという事実を考えてみれば、真に利口な演出だと言わざるをえない.
仮にコンギルがジャンセン, ヨンサンと赤裸々なセックスを行なったなら、どうだったか?
そして三つ目, 映画の中に描写される男たちの愛は互いに対する終わりのない配慮と犠牲だ.
はなはだしきは暴君ヨンサンさえもがコンギルに対する手助けがつまびらかなことこの上ない.
このような愛の前では同性愛者たちを困らせてみたくて手がむずむずしているホモフォビアも武装解除せざるをえない. 彼らの愛を汚いと悪口を言う根拠が一つもないことだろう.


△ ヨンサンは'王の男'であるコンギルに惹きつけられるが, 結局'王の女'であるノクスに戻る.

このように過度に美しい同性愛という理由で, どちらかといえばこの映画は大多数の観客からは同性愛映画とは見なされないようだ. 彼らが知っている同性愛とは、このように美しくはありえないのだ. あたかも、この映画を同性愛映画だとされた瞬間, 映画の価値が一瞬にして下落でもするかの様に.
これは同性愛者についても同じだ.
朝鮮時代の男寺党牌が行った一場のどきどきする小さなドラマは現実の同性愛者たちの生とは似た点が一つもない.
仮に天に上ったジャンセンとコンギルがまた現代に生まれかわって、互いを愛するならば, 彼らの愛が体験する試練は王の妨害だけではないことだろう. コンギルがどんなにずば抜けた容貌であってもの話だ.
同性愛から同性を離れて愛だけを描写したこの映画は、誰かの話のように一編のよく作られた‘ボーイロマンス’なのかもしれない.
たとえ そうであっても 私はこの映画がおもしろいQueer映画である方に手をさっと上げるはずだ.
Queer映画といえば、<ハッピートゥゲザー> <覇王ビョルヒ> <ロードムービー>など、浅情な現実で葛藤して痛みを感じる同性愛者ばかりが描写されている.
エロチックなセックス描写がなく、慇懃な目くばせだけでもあらゆる事を表現できるゲイロマンスも存在するのだ.

同性愛者も映画を通して夢を見る権利がある. 秋になれば映画館の看板を塗り固める、現実と乖離した純愛ものは異性愛者の専有物ではない.
批評のために作られたようなQueer映画でももちろん良い.
だが、<王の男>のように、時々は現実を忘れて美しい愛を夢見るQueerたちのためのロマンス映画がもっとたくさん登場することを願っている.
 

何故、映画の中のゲイは皆死ぬのか?
‘同性愛=苦痛な愛’という図式に陥没した韓国Queer映画

△ 映画<ロードムービー>

<明日へ流れる川>から<ロードムービー>まで.
これまで韓国で製作されたQueer映画の中で、同性愛者たちの熱烈な歓呼を受けた作品は何だろうか.
結論だけを短く言うと, 無い.
これらの共通点は、同性愛はあっても, 同性愛者はいない映画だ.
自ら真剣に接近するけれど, 現実感がない同性愛者たちが登場して悪戦苦闘して死んでいく声だけがする映画に同質感を感じるのには骨を折る.
しかも、‘同性愛=苦痛な愛’という図式で綴られたこれら映画の系譜は、同性愛者に反発心まで呼び起こさせる.
“あなた方のことはよく知らないが、同性愛者も自ら幸福に愛する!”と叫びたい程だ.
そのような面で、<王の男>も既存の国産Queer映画と違わない.
三角関係を形成した男たちは絶えず苦痛にあって、結局は死ぬ(死が暗示される).
“どうして、韓国Queer映画に出てくるゲイたちは同じように皆死んでしまうのか!”という不満が出てくるに値する.
それでも、<王の男>は既存のQueer映画とは色々な面で違う.
フュージョン史劇という外皮のおかげで、同性愛者たちが現実と映画の中の現実を同一視する必要がない.
そのため、主人公たちの悲劇をより胸に深く感じることができる.
また“また生まれても広大(註:「クァンデ」曲芸師.男寺党牌)として生きる!”という叫びを、“また生まれてもゲイとして生きる!”(君を愛する!)に変えるにしても全く遜色無いほど同性愛を美しく描写する.
彼らの死は<バンジージャンプをする>や<ロードムービー>でとは違い、逸脱した愛の抜け出せない悲劇的帰結であり、愛の完成として迫る.
現実を除去したまま、絶対的な愛という糖衣錠を飲ませた非現実的なロマンス映画の場合、その愛が多分に<タイタニック>級だと観客たちに愛で充満した胸のまま映画館を出るようにさせる.
粗雑に現実を描写し、同性愛者たちの苦痛を絶えず想起させる映画を観ると、いっそ苦痛な現実さえも忘れるだけの美しいロマンスが良いのではないかという気がするようにさせる映画なのだと言えるだろう.