2006年11月ハンギョレ21 633号

東大門運動場も消えるのか

2006年11月03日 第633号

1925年に建てられて植民地の朝鮮人たちの憂憤をなだめたところに多目的公園造成計画… チャムシル運動場ができた80年代以後、機能縮小… 位置を占めた露天商との葛藤が残って

□ キル・ユンヒョン記者 charisma@hani.co.kr

その競技場は既に寿命を全うしたように見えた.
青い芝生が広がっていたサッカー場は索漠としたアスファルトで覆われた駐車場に変わり, 野球場は輝く高校野球黄金期の追憶を後に、人々の記憶から遠ざかった遺物に転落した.
それでも野球場ではときおりゲームが開かれることはある


△ 東大門運動場はすでに900余名の露天商たちが屋台を繰り広げた屋外市場に変わった.
運動場を壊したら清渓川から追い出された露天商は行く所がない.
(写真/ ハンギョレ イ・ジョンチャンギ 記者)

2006年10月25日, 野球場では2006年も秋期ソウル市中学校野球大会に参加したベジェとギョンウォン中の学生達が悪送球とデッドボールを応酬して勝負を繰り広げ, 7-2で先んじたベジェ中が5回裏に大挙6失点して逆転されると、観衆席から時折拍手が溢れ出始めた.
サッカー場は2004年1月16日、清渓川から押し出された露天商たちが集まった屋外市場に変わり、華麗だった過去の名声を見つけるのが難しかった.


“甲子園に次ぐ規模の綜合運動場”

‘場所’に対する人々の記憶は、私たちの期待ほどには粘り強くない.
建物を壊してまた建てればそれで終わり, 人々はそこで行われた生の追憶を容易に忘れる.
清渓川復元という業績を残した前市長に追付かなければならない新ソウル市長は、去る10月18日、記者室に報道資料を送って東大門運動場に死刑宣告を下した.
“ソウル市は、施設が老朽して機能が低下した東大門運動場の場所に、歴史と先端, 水と林, 文化と映像が交わる多目的公園を造成する計画です.” 公園のそばには‘世界的デザイン・ファッションインダストリーのメッカ’になる6階建ての‘デザインワールドプラザ’も建設される.
東大門運動場が私たちの民族と呼吸を共にし始めたのは、今から81年前である1925年10月15日である.
その頃に建てられた建物としては、ソウル駅舎(1925年), 京城府庁(ソウル市庁・1926年), 東亜日報社(1926年), いまはもうない朝鮮総督府(1926年)などがある.
その時期、東大門運動場の名前は‘京城運動場’そして, 京城府 土木技師 大森の設計で京城府が総督府の支援を受けて過去の訓練院2万2700坪に15万5千ウォンを投入して建てた.


△ イ・ヨンミンは、1930年代の韓国野球を代表した不世出のスターであった.1934年、日本オールスターに含まれてベイブ・ルースと撮った写真.
当初、サッカー場は陸上競技場として建てられたことが確認される.
(写真/ <写真で見た韓国野球100年>)

日本語で書かれた総督府機関紙<京城日報>は、1925年5月30日紙で“運動場が完工すれば甲子園に続き、日本で2番目の規模を誇る総合競技場になる”と書いている.
植民地半島の過去の首都に世界的な水準を誇る新しい運動場を建てた日本人の気持ちはどんなものであっただろうか.
京城府が運動場管理のために作った‘条例’1条には、“本条例で京城運動場は、1924年東宮の結婚を記念するために設置した運動場をいう”と記されている.
ここで東宮とは、後日天皇の席に上がるヒロヒトを意味する.
運動場の設置背景を正しく聞こうとするなら不快な感じを消すことができないが, 以後、京城運動場は植民地朝鮮人の憂憤をなだめる窓口の役割をずいぶんやり遂げた.
運動場が作られる前まで、朝鮮にはベジェ学堂・キョンシン学校・フィムン義塾など、民族学校等の運動場を除くと運動競技を繰り広げるだけの体育施設がなかった.
そのため、サッカーや野球競技が開かれると、民家の塀を越えて味噌瓶を割ることが多かったという.
30年頃の早い時代ではあるが、映画俳優 ソン・ガンホ氏が主役を演じて2002年に開封された映画は、新式ゲーム施設がなかった当時朝鮮の事情を事実感をもって描いている.


悲運の天才イ・ヨンミンが‘本塁打’を飛ばした所

植民地朝鮮のとても大きな体育行事は、延高戦という名前で続いている‘延宝戦’(延喜専門-宝城専門)と、1929年に朝鮮日報社の主催で始まったソウル-平壌サッカーであった.
平壌チームは体力を全面に出した肉弾戦がトレードマークであり, ソウルチームは延喜専門と宝城専門の選手が主軸になった個人技戦術中心の試合を繰り広げた.
1929年10月8日に始まった第1回大会は、ソウルフィムン中学運動場(今の現代ゲドン社屋)で開かれ, 第2回大会は1930年11月28日から三日間京城運動場で開かれた.
当時の<朝鮮日報>記事を探すと、“試合がある日には市内はほとんど閑散とし、京城運動場には2万観衆が殺到, 立錐の余地がなかった”と書いている.
当代サッカー界の最高スターはギョンシン学校を経て宝城専門選手として活動した‘韓国サッカーの大物’ キム・ヨンシク(1910〜85)だった.
彼は、1936年のベルリンオリンピックに‘半島選手’としては唯一参加して、スウェーデンに3-2で勝つ決勝ゴールをアシストする.
サッカーにキム・ヨンシクがあったとすれば、野球には‘悲運の天才’イ・ヨンミン(1905〜54)があった.
彼は1930年代の浅薄な韓国スポーツ界で、孫基禎(註:マラソン)と一緒に世界的な水準に到達したほとんど唯一の選手だった.
過去の記録を探すと、彼は言葉そのままに種目を区別しない万能スポーツマンだったようだ.
彼はベジェ学堂と延喜専門時期にサッカーと陸上選手として何度も大会に出場して優秀な成績をおさめた.
1928年6月8日, 彼は京城運動場の歴史に永く残る大記録を樹立するのだ. 京城運動場最初のホームランの主人公になったのである.
1928年6月10日紙<東亜日報>は、2面で“京城球場設立以来初めての大本塁打, 延喜専門のイ・ヨンミン君が塀を越えた”(本塁打とは何の意味なのかわからなくて辞典で探したら, ホームランだった)というタイトルと共に彼の写真を大きく載せている.
“その間、同球場で行なったゲームに出場した人物には、米国の巨人軍や(中略)日本の最強軍があったが、開設以来4年間経った去る8日に延喜専門軍対医専(京城医専)野球試合で、三番打者イ・ヨンミン君が第1回2死後、第2球インコースボールをスコアボードを目掛けて飛ばした.” 設立当時、ホームから左右フェンスまでの距離は108m, センターフェンスまでの距離は111.6mであった.
彼は1934年、日本読売新聞社主催のメジャーリーグオールスター日本巡回試合には‘朝鮮の代表選手’として出場する機会を得ることもあり, この時にベイブ・ルースと親しく撮った写真がいまでも残っている.
1954年8月12日, 彼は息子の友人が撃った銃によって息をひきとった.


△ 日帝時代に作成された京城運動場平面図
解放された祖国で京城運動場はソウル運動場に名前を変える.
解放から分断へつながる政治的混乱の中で, 運動場は試合場ではなく、大規模群衆が集まる集会場として愛用され始めた.

モスクワ3相会談で触発された賛託と反信託論議沸騰集会と, 1946年メーデー集会, 挫折と悔恨の中で亡くなったヨ・ウンヒョン(1886〜1947)とキム・グ(1976〜49)の葬式がこちらで開かれた(1926年には大韓帝国最後の皇帝 純宗の葬祭が開かれた).
ヨ・ウンヒョンの長い間の同志だった独立運動家 ジョ・ドンホ(1892〜1954)の息子 ジョ・ユンギュ(65)氏は、“ソウル運動場で開かれたヨ・ウンヒョン先生の葬式に行くために新堂洞の家を出た記憶が鮮明です”と話した.


政治的混乱期には大規模集会場

分断以後、貧しい国民たちの憂いをなだめてくれたのはスポーツゲームであった.
その時期の運動場の状態は非常に悪かった.
スコアボードは観衆席の裏側に立てられた黒板であったし、照明塔がなくて夜には試合を開けなかった(必要な時は軍部隊ジープのヘッドライトのあかりが照明塔の役割をした).
ソウル運動場は、1960年に我国で初めて建てられた芝球場であるヒョジャン運動場にサッカーのメッカの地位を渡す試練を体験した.
ヒョジャン球場が冬にはスケート場として利用される酷使の果てに開場4年で普通の土に変わると, サッカーの中心はまたソウル運動場へ戻った.
これを喜ぶように運動場は大々的保守工事を経て、2万5千席のスタンドを揃え, 1968年には運動場最大の宿願事業だった照明塔と電光掲示板が設置された.
その時のソウル人口は380万人, 小説家 イ・ホチョルはその年2月から<東亜日報>に‘ソウルは一万ウォンだ’という小説を連載し始めた.


△ 東大門運動場ではプロ野球とプロサッカー開幕式が開かれることもあった.

1982年3月27日、プロ野球開幕戦でMBC青龍と三星ライオンズが正面対決した.
オールドサッカーファンの記憶に残るソウル運動場最大の‘ロマン’は、ボックスカップ(後ほど大統領杯サッカー大会とコリアカップに名前が変わったが、1999年に廃止された)であろう.
その時期、‘太極号’は、マレーシア, タイなどと二転三転するアジアの2流チームだった.
我が国のサッカーファンをテレビの前に呼び集めた3大大会は、ワールドカップ, ヨーロッパサッカー選手権, チャンピオンズリーグではなく, マレーシアのメルデカカップ, タイのキングスカップ, そして我が国のボックスカップだった.
1976年9月11日、ソウル運動場で開かれたマレーシアとのボックスカップ開幕戦でわたしたは後ほど‘チャブム’と呼ばれるようになる大スターの誕生を見守ることになる.
当時、‘太極号’はアウェイのメルデカカップ開幕戦でホームチーム マレーシアに1-2で惨敗する.
切歯腐心歯ぎしりした代表チームは、マレーシアをホームへ呼び入れて雪辱戦を準備した.
しかし、太極号は前半だけで3ゴールを決められて, 後半終了7分を残すまでに1ゴールずつをやりとりして1-4で後れをとっていた.
その瞬間、アジアの英雄 チャ・ボムグンが グラウンドに姿をあらわした.
“センターサークルにボールを置いて何度か打ったが、シュートを放ったところ, それがゴールインになった. その後に入った2ゴールはどのように入れたのか、全く思い出せない.”(<韓国サッカーの英雄たち>, 大韓サッカー協会編)
彼は7分間で3ゴールを陥れて劇的な引分けを編み出したのだ.
当時の録画フィルムは残っていなく, チャ・ボムグンが編み出した7分の奇跡はオールドファンたちの口だけで伝えられる伝説として残っている.
そのとなりにある野球場では、70年代を華麗に彩った高校野球のスターたちが各々の技量を誇って明滅した.
高校野球の最後の花火は、最強 ソンリンサン高を率いた二本柱である パク・ノジュン・キム・ゴヌが次々と負傷で脱落したまま慶北高校に4-6の敗北を喫した1981年8月26日の鳳凰決勝だ.
翌年のプロ野球とその翌年にプロサッカーの開幕戦が開かれた所もソウル運動場だ.


文化連帯, 反対記者会見開く熱気

‘待望の80年代’が明るくなったし, 運動場は遺物に転落する運命を淡々と受け入れなければならなかった.
86アジア大会と88オリンピックに対応して1984年にチャムシル綜合運動場が建設されながら、ソウル運動場は東大門運動場に名前が変わって, それに合うように機能も大きく縮小された.
LGとOBの‘ソウルダービー’や国家代表チームのAマッチはこれ以上東大門を訪れない.
東大門運動場で最後に開かれたプロゲームは、2000年10月22日午後3時15分開始の城南-水原の‘2000アディダスカップ’決勝戦で, ソ・ジョンウォンの決勝ゴールで水原が城南を1-0で破った.
まだ残っている野球場では、2005年には189 回ゲームが開かれ、9万6494名の観客が入場した.
寿命を終えた東大門のサッカー場と野球場は、球場を壊さなければならないソウル市とその中に暮らす露天商の葛藤の背景として、歴史に最後の名前1行を残すはずだ.
文化連帯は10月31日に我が国近代体育の精神的土台になった運動場をむやみに壊してはならないという内容の記者会見を行う.

球場がなくなっても生は続く.
ただ、すこし惜しいだけだ.