2007年4月ハンギョレ21 657号

“新聞社を辞めて、すべて始まった”

2007年04月26日 第657号

<中央日報> 前 写真記者 オ・ドンミョンの 新しい人生 … 60歳までに夢をかなえさせてくれるから “ホン・ソグヒョン会長にありがとうと言いたい”

キム・ヨンベ記者kimyb@hani.co.kr
写真・チョン・スサン記者jss49@hani.co.kr


“こういう文を書くに先立ち、かなり躊躇しました.
私も食べさせなければいけない妻子があるので, 社主に反旗を翻すような行動をする意欲がわかなかったからです.”


1ケ月に一度‘携帯電話のない日’


‘言論弾圧であると主張するに先立ち’というタイトルをつけた彼の文には、‘記者’である前に生活費を稼がなければならない‘生活人’の心配が隠されている.
といえども、“社主ひとりの問題ではなく, <中央日報>の将来がかかった, そして正道を歩かなければならない新聞の位置づけがかかった問題であるため, 辞表を書く覚悟というのではなく, 退社する決定をしてはじめてこの文を書くことになった”という決然とした意志を明らかにした.
1999年11月4日、<中央日報>本社内に貼りだされた写真部 オ・ドンミョン記者の決意文は‘生活人’の心配通り、彼の人生行路をすっかり変えた.
1ケ月ほど前になるその年の9月30日に脱税嫌疑で召還されたホン・ソグヒョン<中央日報>会長(当時社長)に向かって40余名の記者たちが両側に並んだまま“ホン社長, 力を出してください”と叫ぶ‘妙なコメデイ’をはじめとする社主庇護形態を批判した決意文が縁戚言論内部で容認されるのは難しかった.
“新聞社社長という理由一つだけで, 起こしていた多くの不正さえも記者たちが率先して‘言論弾圧’という美名の下に隠そうとするならば, 私達が本当に永く願っていた真の言論の独立は論外で, 単に文字が打込まれた新聞紙製造業者職員への転落を私たち自らが招来する格好になってしまうだろう”という絶叫は彼一人だけの孤独な声として上げられた.

“辞表を出す時は(会社内部の雰囲気が)ちょっとは変わるだろうと期待しました.
そうなれば復帰する考えもあったのですが….酒の席で社主を批判した者たちがむしろ固く団結し率先して庇護にたつのを見たくなかったのです.”

固定収入源をなくした当初、彼に助けの手を差し出したのは普段から知っていたある企業人だった.‘決意文事態’を見て、心配になって電話したが、退社を知ると自分の会社の仕事をちょっと手伝ってくれと言ってくれたのだ.
第一企画から始まり、<国民日報>を経て<中央日報>に達するまで、ずっとやってきた写真撮影の仕事だった.
ここから出てくる固定収入と時々入ってくる講演要請, 月刊誌やインターネット媒体への寄稿でどうにかこうにか生計をつくりあげたが、生活は不安の連続だった.
会社を離れた翌年にはe-mailIDを‘疲労(モムサル)’とするほど(momsal2000@naver.com)ひどい風邪をひいたこともあった.
<中央日報>時期に比べると非常に不足した収入なのに加え、それさえも安定的ではなかった.
月刊誌原稿料は適時に入らない場合が多かったし, 時々編集して出す本は多量の金には連結しなかった.
昨年は特に収入が少なく、集めたお金を取り崩して頑張らなければならない境遇だった.
幸運なことに、今年に入って着実に仕事がつながっている.
4月中に出版社ドゥリメディアを通して<父母として生きるということ>を編集して出す予定であり, 風物に関する本を発刊する作業にも参加している.
オ氏は既に <チャルカク> <写真で読む世の中> <貴方は記者に会いましたか?> <新聞所襲撃事件> <針のあな 写真記> <よもやチンパンジーより撮れないのか> <金曜日夕方に出発する5万ウォン2泊3日> などのいろいろな本を編集して出した.

△ オ・ドンミョン氏は、“私は恵まれていて、運が良い人”という言葉をいつも口にして暮らす.
新しく巣を開いた春川で自転車に乗り、少しの間休んでいる.


今回出す本<父母として生きるということ>は、家族のなかで父母, 特に父の役割に重点をおいている.
父母と息子間の対話の断絶を克服し、友人のような関係に回復する道を模索する、直・間接的である体験事例を聞かせてくれる.
オ氏は “対話しようと言ってできるものではなく、家族ごとに事情に合う(対話を引き出す)ある‘装置’が必要です”と話す. オ氏の場合、1ケ月に一度‘携帯電話のない日’を定めることによって、自然に家族間の対話が増える方法を使ったという.
ささいな話から始めて対話を継続してみると, 雰囲気が気楽になりながらお互いに内心をさらけ出すようになるということだ.


息子と日本旅行, パリで絵の勉強…


“<中央日報>にずっと残っていたなら、安住できたでしょうが、いまは夢が多いです. それが差と言うなら、もっとも大きい差です.
<中央日報>時期には3年に1冊ずつ本を出そうという程度の目標だけは持っていました. いまは60歳まで夢が見据えられています.”

残った人生の夢を実現する大きな課題に達すると、今年満50歳に達したオ氏の顔に20〜30代の青年のようなときめきが伺えた.

“脱税事件を契機に恥ずかしい会社を離れる勇気を持つことになったので, 今はもはや、ホン・ソグヒョン会長に対してむしろ有難いと思います. これは冗談ではなく、本気です.”

彼の最初の夢は、来年には中学生になる息子と共に自転車に乗って日本歴史紀行に出発することだ.
日本がポルトガルをはじめとする西洋の文物を受け入れた通路だった長崎から出発し、東京まで自転車で移動しながら日本の昨日と今日をあまねく見回すという抱負だ.
“米国のビザが満了したので、日本をまず選択しました.
子供が小学校2学年時も釜山から船に乗って下関に降りて、東京まで列車で旅行したことがあるのですが, (子供が)今でもその時の話をしますよ.
私達が日本に対して認めるべきことは認めて, それとともに日本を越えることが出来るということを話してあげたくて歴史紀行を計画したのです.
米国ビザ問題が解決したら、アメリカ大陸を自転車で横断する歴史紀行もしてみるつもりです.” 来年の日本歴史紀行はドゥリメディアから本として出すことで約束したし, 本のタイトルも既に定めた.

彼は職場に通っていた時期にストレス解消用に手につけた塗装を木工まで連結し、以前に手ずから‘座机’を作ることもした.
息子へのプレゼント用にひとつ作ったのを噂で伝え聞いた人たちの要請によって8つほど製作して贈った.
1個あたり10万ウォン程である材料費を受け取れるようになれば、もっとより広くプレゼントしてみたいという夢はまだ未完成のまま残っている.
彼の名刺に‘文化デザイナー’という肩書の上に‘文化設計-パパの贈り物’という文句がある背景だ.
日本歴史紀行の後には住居をフランス パリに移すという. 幼い時から持っていた画家の夢を育ててフランス語を勉強するためだ.
モンマルトルからちょっと下の方へ降りてくれば、ソウルの仁寺洞より遥かに安い住みかを用意することができるということまで既に確認しておいた.

“そうやったあとには55〜56歳にはなりますが、その時は地中海を周りながら旅行中でしょう.
古いクルマを一台買って、南ヨーロッパと北アフリカ地域をまわりながら、文化・宗教・旅行の三分野に分けて取材し、本として残します.”

新聞社時期の経験に付け加えて、世の中が広いことを子供たちに対して聞かせてあげたいということが彼の望みだという.
彼が60歳に達したら、展示会を一度開けば夢はとりあえず完成される.


現職記者より、もっと記者らしい

‘40代序盤くらいに若く見える’という冗談を彼は敢えて否認しなかった.
既にそのような言葉をたくさん聞いているのか、“気楽に生きていることが顔に現れるのかも”と笑った.
ソウル生え抜きである彼が、以前、閑静で風光明媚な春川に住みかを移したのも、‘顔年齢’を引き下ろした要因だ.
“(記者たちに)‘新聞社を辞めてみませんか’と言ってみたいけれど, お金を稼がなければね, ははは.” 全身で世の中とぶつかって, また、そのように体験した仕事を本として編集して出す、まさに現職記者よりもっと記者のようだという気がした.
春川に遊びに行くという約束を必ず守りたい.