2012年4月ハンギョレ21 907号

査察が日常化になった社会

[2012.04.23 第907号]
[ノー テンキュ!]


私が通った高等学校は、寄宿舎を含む学校の建物に閉鎖回路テレビ(CCTV), 監視カメラが約40台もあった.
地域人権団体が人権侵害だと指摘をする程だった.
盗難防止のためといったが, 監視カメラという言葉そのままに、監視のためにも使われた.
学生達が廊下で少しだけふざけて騒ぐなどすれば舎監はすぐに放送で警告をした.
一度、私が寄宿舎のなかで先後輩間の上下差別と暴力, そして暴力を助長する舎監などに関しての問題を提起するビラを作って夜明けにこっそり配布したことがある.
舎監と先輩たちは監視カメラに録画された映像を再生して見て私が配布したという事実を知り, 結局私は‘教師指示不履行’というおかしな名目で罰まで受けた.
その時、私は学校から権力機構が安全を名分にして設置した監視システムをどんな方法で使用するのかを学んだ.

≫ イラストレーション/イ・ガンフン

子供の手帳や日記を開いて見る親権者たち

李明博政府の民間人査察事件が最初に浮び上がったのは、すでに2年前だ.
まさに何週間か前には韓国放送新労組が民間人査察関連資料を暴露した.
甲論乙駁があったが, 整理されたのを見れば、李明博政府の民間人査察がどんなに少なく見積もっても数十件に及ぶことは明らかに見える.
検察では法理的に処罰できるのは2件だけだと明らかにしたが, 国家の権力行使は乱用を防いで厳格に統制されなければならないので, 法律を直接違反する場合のみだけでなく、適法な公務員監察の業務内容と手順を踏み越えたあらゆる査察は問題があると見るのが正しい.

それにしても、世の中は変に静かだ.
国家が法の枠を抜け出して人々を査察して監視するということは、決してささいなことではないだろう.
人々の生と関係がない‘政治圏’ 中のことだけというのも違うはずだ.
やはり、国家になにか‘気障りな’事をすれば、状況によりいつでも査察されて監視されるという意味であるためだ.

それにしても, 私達の社会は変に静かだ.
いろいろな理由があるだろうが, まず浮び上がる考えは、韓国社会がプライバシー権などに対する人権感受性が全般的に低いという点だ.
国家人権委員会が小学生日記検査が人権侵害だという当然の決定を下した時、多くの人々はその決定を異常だと思った.
学校では学生達の持ち物検査と携帯電話を調べて, 学生達を査察するのに躊躇がない.
親権者たちも子供の手帳や日記を開いて見て, 子供の携帯電話に位置を監視するシステムを付ける時には費用を心配しても私生活の自由を心配する場合はほとんどない.

青少年の話だけではない.
仕事場でも労働者は自分の勤務態度を監視されることが日常だ.
サムソンは労組を作ろうという労働者を査察し, 国家情報院は‘防諜’という名前で毎年数多くのインターネットと電話内容を覗く.
それのみか.インターネットでは‘身上暴き’が当然なことのように毎日のように行われる局面になっている.

国家が, 権力機構が、市民の監視を受けてこそというものだが, むしろ国家が市民を監視して市民が市民を監視する大韓民国だ.
そのような環境で、人々は監視して監視されるくらいは‘そういうもの’程度に感じる.

監視と査察に萎縮した生

高等学校時、そのように罰を受けた後, 私は学校に批判的なビラを配布する時、監視カメラがない区域だけを通ったことはもちろん、もしかしたら指紋でも鑑識されるかと思って必ず手袋をする程に緊張しなければならなかった.
監視や査察されない自由は、人が人らしく生きようとするなら, 自由に話して行動しようとするなら、必ず必要な権利だ.
監視と査察は人を萎縮させる.
そのような監視と査察で囲まれている私たちの生は, どちらかといえば常時萎縮した生ではないだろうか?


コンヒョン 青少年人権運動家
イラストレーション/イ・ガンフン