"神さんのいたずらや"

以下に掲載したのは、わたしがパゴダ公園(現タプコル公園)で出会った、ある男性の話です。'90年代前半のことになります。

真冬のパゴダ公園、よく晴れた日の夕暮れでした。わたしは通りがかりの彼にいきなり話しかけられたのです・・・*以下、当時書いたものをそのまま掲載しました
 


彼は見た目には
50歳代にしか見えないのだが、今年66歳になるという。早口だが快活な大阪弁は、そのまま彼の性格を現しているようだった。

彼のこれまでの人生の話が始まった。

本名は鄭銭采(チョン・ジョンチェ)。植民地時代の日本名は河本英三郎。'42年に17歳で日本に自分の意志で渡った。日本の統治下で仕事が無かったところへおいしい話を吹き込まれて九州へ渡り、福岡の炭坑で働いたのだ。行ってすぐにだまされたと思ったが、その炭坑は他に比べて良い方だったようで、

「まあ、めしにだけは困らんかったわ」

そして、終戦。だが、回復された祖国へは帰ろうとしなかった。

「大阪へ行きましてん。ボクシングをやったろ、思いましてな。いやいや、それまではグローブをはめたこともないずぶの素人でしたわ。ただ、やりたかったんやなあ。若かったいうことですな」

昼間は焼け残りの町工場で針金を作り、夜は元レフェリーの浅田英治氏の経営する東亜拳闘倶楽部に通う毎日が始まった。

「トレーニングを初めて四日目ですわ。会長に言われて先輩を相手にスパーリングさせられたんは。それがなあ、わたし、思いっきりどついてしまいましたんや。悪いことに、その一発が効いてしもてな。相手は伸びてしまいおった。KOですわ。スパーリングでそんなことするのはただのアホや。しかも、入門四日目の素人相手にスパーリングするような奴や、ほんまは弱かったんやな、その先輩は。
ところが、やっぱりアホはアホや。わたし、自分に実力があるとすっかり思い込んでしまいましたわ。もう1ヶ月早く始めていたら絶対にチャンピオンになれたのに思て、悔しかったくらいや。

その次の日にもスパーリングの相手をさせられたんやけど、今度の相手は8回戦ボーイですわ。前日のことですっかりうぬぼれていたもんで、気楽にリングに上がりましたわ。来い来い、てなもんや。そしたら、こちらから手を出すどころか、相手に触りもしないうちにめちゃめちゃどつかれましてなあ。もう、ぼろぼろでしたわ。この鼻や。ほら、ぶっつぶれてますやろ。軟骨がぐじゅぐじゅになってますのや。手術したんやけど、軟骨は固い骨と違て元通りにはならんのやね。ま、それですっかり恐なりましたわ」

ところが、それでもボクシングを続けた。食糧難の時代だったが、よほど好きだったのだろう。腹ぺこでふらつきながらもトレーニングを続けたという。才能もあったようで、やがて本当の実力も身につけ、プロとしてデビュー。そして、ついには昭和23年度のライト級新人王(関西)を獲得する。

やがて、甲子園や西宮、大阪そして四国へまで試合に行くようになった。公式戦は金にならなかったが、進駐軍のための慰安試合では多少の実入りがあったという。

「それでも、たいしたことないですわ。やっぱりチャンピオンにならんことには金にならんのや。その頃、フェザー級でフィリピン人のベビー・ゴステロゆうのと、ピストン堀口との試合がありましてな。日本王座決定戦や。賞金がなんと6万円。とんでもない額ですわ。絶対にチャンピオンになったろ思いましたな。え、その試合でっか?ゴステロの勝ちや。ピストン堀口はピストンゆうくらいでジャブがひつこいだけで勝ってきたんですわ、ほんまゆうたら。その頃はとうに盛りも過ぎていたし。第一、ゴステロはミドル級の選手を倒したこともある奴や。堀口にとっては最初から勝てん相手だったゆうことや。

いずれにしても、その試合はボクシングがええ金になるゆうことをおしえてくれたなあ。おかげで韓国に帰ってしまうことになりましたけどな。と、いうんは、世界チャンピオンならもっと金になる思たんやけど、日本はその頃敗戦国ですやろ。世界リーグに復帰できるんはいつのことやら、てなもんですわ。そんなら、韓国に帰れば世界に挑戦できるんやないかと考えましてな。19493月のことや。それに、3年後にはヘルシンキでオリンピックやるいうんがわかってたんで、プロゆうのを隠してメダルを獲ったろか、なんて呑気に考えてましたわ。ところが、だめでしたなあ。韓国に帰ってみたら、日本よりそらあひどい食糧難ですのや。そらそうやなあ、あの頃の韓国はめちゃめちゃやったもんなあ。それに、6.25(ユギオ・朝鮮戦争)もじきに始まってしもたし。・・・今度ばかりはいくら好きでもだめでしたわ。それきりや、ボクシングは・・・」

七年ぶりに帰った故郷は全羅南道・和順郡。そして、翌年625日に朝鮮戦争勃発。この地は当時、共産ゲリラいわゆるパルチザンが跋扈した一帯だ。彼らは停戦協定締結後も人民軍に見捨てられたような形で山にこもり、しばらく抵抗を続けた。夜になると村に下りてきて食料などを強奪していったという。

「ほんま、往生したわ。戦に巻き込まれて村人の大半が死んでしもた上に、昼の政府と夜の政府や。両方面倒みなあかん。一番上の兄貴は戦死してたから、生きていくのは難儀なことでしたわ」

パルチザンが掃討され、やっと村が落ち着きを取り戻した1953年の秋、同じ村の娘と結婚して村を出た。復興に賑わうソウルに間借りしながら家具の職人として第二の人生を始めたのだ。17歳で日本に渡った彼は28歳になっていた。

それから25年間生活を切り詰めて金を貯め、百坪ほどの土地を購入。家具の仕上げ工場を建て、念願の独立を果した。だが、好事魔多し、ほどなく体を悪くして作業が続けられなくなった。そして、引退を決意。工場は人に貸してその家賃収入で毎日を送っているという。子供は三男三女。上の五人はすでに独立し、末子はまだ大学四年だが、すでに就職も決まり、その準備で忙しい毎日だという。

苦労の果ての悠々たる隠居生活といえる。もし、日本にそのまま残っていたら、現在どんな生活を送っていただろうか・・・。

「実は、韓国に帰るために下関に行ったときなあ、書類に不備があってすぐには船に乗せてくれんかったんや。そんでも、こっちは韓国に行かんことには世界チャンピオンになれん思てたから、行きたい一心や。あちこちかけずりまわって、なんとか書類を揃えて船に乗りましたわ。今でも時々思うけど、下関で止められたんは、神さんのいたずらや。そのまま大阪に戻ってボクシングを続けていたら、ほんまにチャンピオンになれてたかもしれん。そのチャンスを神さんがちらっと作ってくれたのやな。・・・でも、ええのや。いろんなことありましたけど、これで良かった思いますわ。もし、日本に残っていたとしても同じ事言いましたやろけどなあ、きっと」

韓国へ戻って27年後の1976年、ようやく生活にもゆとりが出てきた彼は、日本を訪れている。そして、大阪でかつて夢を育てた東亜拳闘倶楽部を探した。しかし、すでに元の場所には無く、そこには病院が建っていた。

「それでも、浅田先生のお宅を教えてもろてなんとか見つけましたわ。浅田先生はもうおらんようになってましたけど、奥さんがお元気でおられて懐かしかったわ。でもなあ、奥さんの方がわたしのことを憶えておらんのや。いくらわたしが、河本です、河本英三郎です、いうても、知らんなあやて」

ははは、と腹の底から笑っている彼の顔には、かすかに残る鼻の傷以外に元ライト級ボクサーの面影はすでにない。時代の大波に呑み込まれることなく泳ぎきり、苦労を結実させた余裕がそうさせたのか・・・。そして、おそらくは、少なくはない人々が彼のように苦労を舐めながらも、夢を持てた時代だったのだろう。

一通り話し終えると、彼はいきなりファイティングポーズをとって自分で工夫したサウスポー対策の説明を始めた。ボクシングをあきらめてからも、彼の体の中にはまだボクサーとしての血が流れていたのだ。陽が落ちて底冷えしだした公園の空気を切り裂くような彼のスウェーの動きに一瞬、"河本英三郎"の姿が見えたような気がした。
 

いかがでしょうか。わたしは、彼との出会いによって、わたしの内の−韓国に関わりを持ちはじめた日本人のほとんどが一度は抱え込んだであろう−"わだかまり"が氷解したように思います。

実は、この日には、もう二人のひとに話しかけられました。一人は、女子大生で、自衛隊の海外派遣に関して激しく詰問されました。わたし自身も疑問に思っていると稚拙な韓国語で伝えると、なんとなく白けたような顔をされたのを憶えています。もう一人は、地方から出てきた老農民で、ウルグアイラウンドによる農産物輸入自由化とますます進む工業化による人々の変貌に怒っていました。二宮尊徳を敬愛する、土に生きてきた人でした。
実際に植民地時代を経験し、それなりに辛い思いもしてきたはずの人たちが、意外にも「日本人」に対しての憎しみを持っていないのは、その時に同時代を生きる日本人との交流があったからでしょう.

政府が定めて国定教科書に載る「歴史」はそれなりに「事実」でしょう.でも、「真実」は実際にその時代を生きてきたそれぞれの人たちの中にあるものではないでしょうか.

風窓web主宰 タカミ記